1. 作画がひどいそ

が、しかしこれは何とかならないか

演出面では容易に余人の到達し得ない偉業を達成した「プリンセスナイン」 だが、手放しで絶賛する訳にはいかない大きな問題も抱えていた。

作画がひどいそ

まず指摘しなければならないのは、作画のひどさだろう。これは単に「毎 週放映しなければならないテレビシリーズだからしかたない」ですむレベルの 話ではなかった。

まず、第1話からして「これはひどい」 と言わざるを得ないシーンが続出していた。第1話というのは作品の「顔」で あり、「我々はこういうものをこれからお見せしますよ」ということをフィル ムの向こうの視聴者にアピールする、最も重要な話数のひとつである。また、 スタッフにとっても、自分たちはこういう世界を産み出していくんだ、という ことを初めて明確な形で認識し、これを手がかりに具体的な認識の共有を行っ ていくという、極めて重要な役割を担っている。ところが、実際に出て来たも のはアレである。

具体的に問題点を指摘していこう。まず、涼がドルフィンズのリリーフに 立つ場面。誰が考えても、第1話最大の見せ場であり、これから先26話にわた るストーリーをしょって立つ主人公を、最大限に華々しく、かっこよく、視聴 者に強烈に印象づけるシーンでなければならないはずだ。

ところが、涼の投げるシーンの作画のなんといいかげんなことか!初めて 見た時の印象を正直に記せば、「おいおい、5m 先の相手とキャッチボールし てるんじゃないんだぞ。って言うか、そんなフォームじゃ目の前の相手にすら ろくに届かないんじゃないのか?」―――という感じである。

ストーリー上は、確かに涼の快速球は相手バッターを見事三球三振に切っ て取っているはずなのだ。演出からも、効果音からも、BGM からも、確かにそ ういう展開を表現しようとしている意図が汲み取れる。が、画面の中の涼 は、「野球が全く初めての女子中学生でももう少しまともなフォームを取るだ ろう」とケチを付けたくなるようないいかげんな腕の振り回し方をし、その球 は「快速球」からは 100 光年ほどもかけ離れたヘロヘロ球だったのであ る。これでは、ストーリーの要である「大の大人を軽く手玉にとる速球少女!」 という部分に、説得力が全くなくなってしまう。

また、涼だけでなく、それ以外のメンバーの野球のシーン―――例えば、 野手の間を抜けていく球やそれらに食いついていく野手、涼に返球するキャッ チャーのフォームなど―――も、同様に「動き」の生理を全く感じさせないど ヘボなものだった。

また、第2の見せ場、第1話後半から第2 話前半にかけての、涼対チンピラ・高杉の対決シーンの作画も、目を覆わ んばかりのひどさだった。うまく行ったと言えるのは1人目のチンピラの3球 目(ストップモーション風の演出が施されていたため、動きを伴う作画が不要 だった)くらいで、あとは高杉のバットが折れるシーンをはじめとして、全滅 と言っていい。(何だ、あのスイングは?あれのどこが「元ノンプロ」なんだ? それにカットごとに折れたバットの長さが全然違うのは何とかしてくれ!)

あるいは第3話、涼がテニスボールを 投げ返すシーン。坂の上まで数十メートルはあろうかという間隔を隔てて投げ た涼の球が、寸分の狂いもなくネットに空いた穴を通り抜け、呆然とするいず みの顔面をかずめる!―――というシーンがある。ここで重要なのは、

  1. 普通の女の子なら、とても届きすらしない距離を軽々と届かせ、
  2. 「針の穴をも通すほどの」という形容が全然オーバーじゃないほどの超 人的なコントロールを持ち、
  3. しかもそれだけの距離を経たにも関わらず、うなりをあげていずみの顔 面をかすめる程の球威を保っていた
という、涼のケタ外れの野球能力を描いて、主人公の突出した個性を改めて視 聴者に印象づけること、である。BGM も、あの伝説の始まりを告げた第1話の 初登板シーンのファンファーレが再び高らかに鳴り渡り、雰囲気はいまや期待 と予兆を孕んで最高潮に盛り上がる!

それなのにそれなのに、現実に我々の目の前で展開された光景は、ああ!! 相変わらず 5m 先の相手にすら届きそうにないほどとろいひょろひょろ球が、 なぜか途中で高度を全く落さぬまま(無重力なのか!?)のっぺりしたウソく さい動きで進んでいく(「飛ぶ」のではない)ていたらくである。涼の球速に 呆然としているいずみの表情や、F1 レースの車両通過音を思わせる大袈裟な 効果音との余りに大きなギャップが見てて痛々しかった。

結局、作画は最後に至るまで抜本的に改善されることなく、「プリンセス ナイン」のガンであり続けた([2002,5/6] 追記)。この作品を語る上で、最大の欠点とし てこのことを挙げざるを得ないのは、大変残念なことである。

ただし、そのようになってしまった責任を、全面的に作画スタッフに押し つけるのは気の毒だろう。現在、アニメ界の主流となっている作品は、ほとん どが

のいずれかであって、最初からアニメ用に企画された完全オリジナル作品は、 そのほとんどが純粋なお子様向け作品である。これらの、視聴者をナメたクズ 作品にアニメ界の人的資源のほとんどが振り向けられてしまうため、「プリン セスナイン」のような意欲的な作品がワリを食う羽目になってしまっている。

キャラクターデザイン・総作画監督の橋本氏も、本作の作画面での最高責 任者としてできる限りの努力は尽くしたのだろうが、アニメ界に根ざすそのよ うな構造的な問題は、一個人・一アニメスタジオで覆すことのできるようなも のではあり得ない。

(「プリ9」の製作母体であるフェニックスエンタテイメントの看板アニ メーターである山下明彦氏が、フェニックス渾身の一作である「プリ9」に、 結局ほとんど参加しなかった(スタッフクレジットを見る限り、キャラクター 原案とエンディング作画監督、オープニング原画の他には、本編ではただ一度、 17話の原画を担当しただけで、 26話にすらその名はなかった)のは、そ のような状況の下、他作品に「出稼ぎ」に行かざるを得なかった、という理由 があるのだろう。)

「映像表現文化としてのアニメの価値」の確立を怠り、業界の将来に対す る長期的な展望を欠いたまま、アニメ界にとって害悪でしかないそれらの作品 を垂れ流し続けるようなことが続く限り、アニメ界に取って真に価値のある、 アニメ用新作オリジナル作品はいつまで経っても主流を占めることはありえず、 アニメの社会的地位も向上しない。

また、アニメを毒するそれらの作品が垂れ流され続けているのには、アニ メファンの側にもその責任がある。そのような作品の問題点をちゃんと正視す ることなく、パブロフの犬よろしく自分の欲望を満たすことしか考えない短絡 的な行動を取る――言い替えれば、それらクズ作品を支え、利するようなこと ばかりしていたからこそ、そのような作品の供給がいつまで経っても減らない のである。

これは私が日頃から本当に訴えたいことなのだが、製作者側もファンの側 も、もうそういう作品とは金輪際縁を切って欲しい。自分の行動のアニメ界に 対する責任をしっかり考え、自分が何をなすべきかを考えた上で適切な行動を 取らなければならない。「想像力」とは、こういうときにこそ働かせるものだ。

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井汲 景太 <ikumikeita@jcom.home.ne.jp.NOSPAM.>(迷惑メールお断り)
最終更新日: 2002年5月 6日