西野は真中を支え、その夢に貢献したか?

西野についてときどき見かける誤解として、「西野が真中(の夢)を支え、 真中の励みになった」「真中が夢に向かう上で、西野が重要不可欠な役割を果た した」といったものがあります。 例えばこれがそうですね。 これもそうです。それらで指摘して いる通り、 もちろんそんな話はウソ八百です

驚くべきことは、この誤解は西野派の間でのみ見られるものではない、 ということです。トップページのリンク集でも 紹介しましたが、 はっきりと東城贔屓であることを表明している人でさえ、(一度は)西野を 自分を応援してくれて、はげみになる彼女と位置づけ、 極限の努力と成長が強いられる世界から、癒されること、自分が 心砕けたときに励ましてくれる存在というのも、また同じくらいに重要なのです と論を立てたりしています(なおこれらについては、 疑問点を指摘 した所、基本的にそれを認めていただいています)。

なぜ、本編にまったくありもしなかったこのような幻想が、 示し合わせたかのように複数の場所から立ち上って来るのか?しかも、そん な幻想を抱く動機に乏しい立場の人からさえ

そのことは以前から謎に思っていたことです。理由の一部は、4巻で大草が 「(西野は)ずっとひたむきに自分を応援してくれそうな女の子」と評したり、 西野が観覧車の中で「あたしも淳平くんの夢応援するね」と言ったりしたことに 引きずられている、ということなんでしょうが、(やはり トップページリンク集で取り上げましたがある西野派の 方が述べている通り作中には実際にはそんな描写はなく、 これらは河下先生の(〆切に追われてひねり出した?)その場限りの出まか せに近い、幻の構想だと思うしかありません。となると、やはり再度上の 疑問が何ら解決しないまま浮上して来てしまうのですが、ここでひとつの仮説に 思い当たりました。このマンガは、最後の方では、東城が矛盾した想いにあがき、 自分の深い想いを断ち切り、どん底から這い上がって気高く羽ばたいていく姿が 描かれ、そして真中も依存を断ち切り、映画監督へ向けての夢に真剣に向かい合 おうとしていきます。そういった、一見すると非常に「美しい」描写が散りばめ られているため、読んでいる方はうっかりするとそこから逆算してそれに 「ふさわしい」内実も描かれていたという感覚にとらわれてしまいがちなのでは ないでしょうか

実際に描かれていたのは、 メインカップル であるはずの真中と西野の余りに貧しすぎる関係だったり、 自分では何もしないまま何もかも他人に奉仕してもらっておいしい結末だけまん まとせしめた西野だったり、 そんな2人だけでは余りにもみすぼらしすぎる物語性を底上げするために、東城 一人が使い捨てにされる、といった薄汚い裏事情だったのですが、何しろ作 者が上述のような「美しい」面を何の後ろめたさもなくさも当たり前のように自 信たっぷりで描くので、「これだけ堂々と描くからには、当然それに ふさわしく東西がほぼ拮抗していたという描写になっていたはずだ」という感覚 が沸いてくることは理解できます(それはただの錯覚なのですが)。 いや、そんなとてつもない錯覚さえ起こさせてしまうほどに、 河下先生の画力には何だかよくわから ないすごさがあったんでしょうけど。そういう意味では他にちょっと見当た らない才能と言えるかもしれません。惜しむらくは、そんな才能があっても、 有意義な使いどころがあんまり思い当たらないという点ですが。

また、上述のような醜い裏事情というのは、実は初読の段階では案外気づき にくいことでもあります。なぜならば、そういった「不十分さ」というものは、 一般に言って「後から帳尻が合う話になっているかもしれないので、読み進める 時点ではその場ですぐケチを付けるのではなく最後まで読むまで判断を保留しよ うという心理が働く」ものだからです。そしてこのマンガの場合、特に最後 の方が美しい描写で華々しく飾られていたので、その強烈な印象によって棚上げ されていた保留事項は霞んでしまいがちになります。それで、西野派かど うかによらず、両陣営から同じように「西野が、真中を支えていた」と思い違い した評が持ち上がってくるのではないでしょうか。

実際、私も読み返してみるまでは上で指摘したような醜悪な裏事情というの はあんまりはっきり意識していませんでした。これらは、明確な批判意識を 持ってこのマンガをちゃんと読み返そうとしない限り、はっきりと意識に上って 来にくい類の問題点だと思います。Amazon のレビュー( ジャンプコミックス版 文庫版)や、 新聞赤旗に載ったという評などでひたすらこのマンガの表層的な「美しさ」 ばかりを賞賛し、そのハリボテ性に全く無頓着な評価が多く見られるのはおそら くその典型で、それらは基本的に一度読んだっきりかそこらの表面的な感覚 に囚われたまま雑にものされた、粉飾だらけの書評なのではないでしょう か。

まあ、そこら辺は東西どちらにも肩入れしていなかった北大路派の人たちは そういった落とし穴に耐性があったかもしれませんね。距離を置いて見られる分、 「何この見てくれだけの張りぼてストーリーは」とあっさり看破できてしまいそ うです。


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井汲 景太 <ikumikeita@jcom.home.ne.jp.NOSPAM.>(迷惑メールお断り)
最終更新日: 2024年04月21日