確率と幾何学

「確率」というものについて考えを深めていくと、しばしば根源的・哲学的疑問に行き着く。「サイコロを振るとき、どの目が出るかは同様に確からしい、と言うが、同様に確からしいとはどういうことか。もっとあいまいさのない形で言うとどうなるのか。なぜぴったり \(\dfrac{1}{6}\) ずつに等しいと言えるのか」「そもそも確率とは何か。1の目が \(\dfrac{1}{6}\) の確率で出る、とは、一体何を指しているのか」といった疑問を、一度は抱いたことのある人は多いだろう。

数学ではこのような問いに直接答えようとすることは放棄し、「標本空間」「素事象」「確率分布」といった道具を用意して、

「起こり得る結果」に「全体を \(1\) としたときの相対的な起こりやすさ」を予め分配しておいてくれれば、それに基づく「確率」の値を曖昧さなしに定義し、算出することが可能です

ということを請け負う。そこでは、「どういう分配の仕方が『正しい』分配なのか」ということは問わない。それを追究しようとすると、結局答のない問いの答を探し求める、不毛な循環に陥ってしまうからだ。この文脈では「さいころのどの目が出る確率も \(\dfrac{1}{6}\) ずつ」ということも絶対ではなく、「そのように定めた条件下では、このような試行でのこれこれの確率は計算可能です」という「状況設定の一例」にすぎない。「なぜ」\(\dfrac{1}{6}\) ずつなのか、なぜそれが「正しい」のか、ということは、最初から守備範囲に入れていないのだ。

「本当に \(\dfrac{1}{6}\) ずつなのか」ということを考察しようとしたら、「それはサイコロの各面が、対等な構造を持っているから」といった辺りに根拠を求めることになるだろう。しかし、今のように「確率とはそもそも何か」を問い直している立場からは、そこから「構造が対等だと確率が一致する、となぜ言えるのか」という問いに直ちにつながるだろう。

実際、現実世界では「構造の対等さは確率の等しさを保証しない」という実例が存在することがわかっている。1957年のノーベル物理学賞は、素粒子物理での鏡映対称性の破れをテーマとした研究に贈られているが、それは簡単に言えば「完全に左右対称に作られた実験装置から、左右非対称な現象が生ずる」ということなのだ。これは単なる机上の空論ではなく、実際に非対称性が生じていることが、様々な実験で何度も確認されており、「我々の宇宙は完全なる鏡映対称性は持っていない」ということは間違いない事実だ。

つまり、サイコロの6面がいくら厳密に対等に作られていようとも、そのことと「同様に確からしい」ということは概念上別個のもの、ということになる。構造に根拠を求めることができないとなると、結局、「サイコロのどの面も同様に確からしく出る」ということは、「そうだと仮定しよう」と関係者(誰?)が予め合意しておく「協定」と考えるしかない。

こう言うと、「そんなに薄弱な根拠で、あたかも確率 \(\dfrac{1}{6}\) が正しいかのように思って計算した値に何の意味があるのか」と激しく反発を覚える方もいるだろう。そのような向きは、次のように考えて頂きたい。

我々は「どの目も確率 \(\dfrac{1}{6}\) ずつで出る」という「理想化されたサイコロ」についての確率を考えることになるわけだが、「現実には理想化されたサイコロは存在しないから、そんな確率を計算することに意味はない」ということには必ずしもならない。よく似た例を、我々は幾何学の分野で知っている。

幾何学では、「平面」や「点」や「直線」は理想化された、現実には決して存在しないもので「無限に広く、歪みのない無限に正確な平面」「大きさを持たず位置だけを持つ点」「幅を持たず、無限に長く無限に正確な直線」といったものとして扱われる。しかしそのような概念に基づいて構築された幾何学に現実的な意味がないかと言えば、そんなことはない。それは、そうやって理想化された平面や点や直線が、現実の紙やそこにインクや鉛筆の芯で描かれた跡を十分よく近似している(と信ずるに足る理由がある)からだ。

また、逆にそうやって理想化されたモデルからの計算と現実を比較することにより、「この紙やインキや鉛筆による作図からは、どれくらいの誤差が生じ得るか」といった定量的・客観的な評価を下すこともできる。そういう場合、理想化された対象物は現実の物体にしがみつく様々な煩雑さを捨象したものだからこそ正確な計算をするのに向いているのであり、定量的な評価が可能になっているわけである。

「理想化されたサイコロ」に基づく確率計算も、それと同じような捉え方をすればよい。理想化されたサイコロは現実のサイコロを十分よく近似している。それは、現実のサイコロを振る実験をたくさん繰り返してみれば誰でも確かめられる。また、理想化されたサイコロに基づく計算結果と、実際に起きた「事象の相対頻度」を比較することで、「このような製法で作られたサイコロは、どれくらいの誤差を持つか」といったことを定量的・客観的に評価することもできる。

我々が数学で扱う「同様な確からしさ」というのは、そういう性格のものなのだ、と思っておくのが、精神的な健康を保つ上では最も適切な態度であろう。私は、そのように思っている。


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