「ヤマト」はよく、「一度死んだ登場人物が後に何回も生き返った」 という非難を受けることがあります。が、しかしその非難は正当なの でしょうか?本ページでは、この点を検証してみます。
まずは、ヤマトの全シリーズ(「2520」や「大銀河」などのことはとりあ えず無視。また、一応「正史」ではあるものの、「復活篇」もここでは除きます) を、作中の年代順に並べて、作品同士のつながりを流れ図として表してみましょ う。
┌──────────┐ ┌──────────┐ │ 宇宙戦艦ヤマト │ │ 宇宙戦艦ヤマト │ │ 劇場映画 ├┐┌┤ TVシリーズ │ 対ガミラス戦 │ 1977 ││││ 1974〜75 │ └─────┬────┘││└────┬─────┘ │ ┌──┼┘ │ ↓ ↓ │ ↓ ┌──────────┐│ ┌──────────┐ │さらば宇宙戦艦ヤマト│└→│ 宇宙戦艦ヤマト2 │ │ 劇場映画 │ │ TVシリーズ │ 対白色彗星帝国戦 │ 1978 │ │ 1978〜79 │ └──────────┘ └────┬─────┘ ↓※注 ┌──────────┐ │ 新たなる旅立ち │ │ TVスペシャル │ 対暗黒星団帝国・前哨戦 │ 1979 │ └────┬─────┘ ↓ ┌──────────┐ │ ヤマトよ永遠に │ │ 劇場映画 │ 対暗黒星団帝国戦 │ 1980 │ └────┬─────┘ ↓ ┌──────────┐ │宇宙戦艦ヤマトIII│ │ TVシリーズ │ 太陽の異常・移民先探し │ 1980〜81 │ └────┬─────┘ ↓ ┌──────────┐ │宇宙戦艦ヤマト完結編│ │ 劇場映画 │ 対ディンギル帝国戦 │ 1983 │ └──────────┘
すぐ解るように、第1作(対ガミラス戦)と第2作(対白色彗星戦)は、 劇場版とテレビ版の両方が作られています。ポイントとなるのは、この第2作 のテレビ版「ヤマト2」です。
「さらば」で、主要登場人物の多くが死亡し(古代、雪、真田、徳川、佐 渡、加藤、山本、デスラー、アナライザーと軒並み死んだ)、ヤマトそのもの まで最後は体当たりで消滅してしまったのに対し、同じ対白色彗星戦を描いた 「ヤマト2」では、ほとんどの主要登場人物は生き残り(死んだの は徳川、加藤、山本のみ)、また最後もテレサ1人の力によって敵は滅ぼされ、 ヤマトは地球に生還します。
そして、上の図の矢印でも示したように、以後の話は全てこの「ヤマト2」 につながるものとして描かれているのです。誰が生きてて誰が死んでるか、 というような点も矛盾していません。
また、「ヤマト2」はさらなる続編を作りたいがためだけに後からデッチ上 げられたものではなく、「第2作テレビ版」の制作は当初から予定されていた ことです(「さらば」の封切りと「ヤマト2」の放映開始が同じ年であること に注目)。
従って、「新たなる旅立ち」以降の制作に当たって、「みんな死んで しまったことをなかったことにした」という事実はありません。唯一の 例外は「完結編」で沖田艦長が生き返った、という事例です。作中では「実は 死んでいなかった」という白々しいこじつけが行われていますが、その実態は 「一度死んだキャラを生き返らせた」以外の何物でもありません。
また、「生き返り」に準じる例として、対白色彗星戦で命を落とした加藤 三郎の双子の弟の加藤四郎が「永遠に」で登場し、そのまま「完結 編」まで出演し続けた、という件が挙げられます(顔つきも声優もまったく同 一であり、事実上の「生き返り」と言ってよいでしょう)。推測ですが、人気 の高いキャラだったので、ファンの声に応える形で安易に再登場が図られたも のと思います。
しかし、それら以外に「新たなる旅立ち」以降で「死んだはずのキャラを 生き返らせた」事例は存在しません。(それ以前では、次の2例が挙げられま すが、いずれも作品の質に影響を及ぼすものとは考えられません。
にもかかわらず、「ヤマト」に対しては「死んだはずのキャラがいつの間 にか生き返ったことになっている」という認識を持つ人は少なくないようです (大手マスコミにも、このように誤解したままの記述が見られます)。 これはおそらく、上記の「さらば」と「ヤマト2」の差異を明確に認識してい ない人が、「さらば」を見た記憶を元に後期作品群を見て発言したり、それを 真に受けた人が受け売りを繰り返したために広まったものなのでしょう。
以上のように、「死んだキャラを安易に生き返らせた」という非難は、 「ヤマト」という作品の価値に対する批判としては的外れな言いがかり です。それが作品の価値そのものに関わるほど重大な問題を引き起こす のは「完結編」のみで、それ以前の「永遠に」「ヤマトIII」では「双子の弟」 問題は「傷」ではあるものの作品そのものの価値を揺るがす程の重大事とは言 えません。
では「新たなる旅立ち」以降の「ヤマト」に問題がないかと言えばそんな ことは全然なくって、無理な設定や矛盾の数々、キャラの使い捨て など、すでに作品としての耐用年数を過ぎていた作品を無理矢理引き 延ばすことの弊害の数々が膿となって吹き出してきています。
そして、問題点の最たるものが、「第2作で終わりにする。続編は作らな い」と明言していたにもかかわらず結局作ってしまった節操のなさです。これ さえ守っていれば後にその評判を不当に傷 つけられることもなく、今なお誰しもが不滅の金字塔として仰がざるを得ない アニメ史上最高傑作として君臨し続けていたはずなのに…と思うと、返すがえ すも無念極まりません。
「新たなる旅立ち」以降の後期ヤマトに対して、本当に責めるべき点は上 記のような問題点であって、断じて「安易な生き返り」などではありません。 「生き返り」を問題点として持ち出すことは、アニメファン・ヤマトファン以 外にとっては「誤った前提に基づき非難を行う」という点で恥ずべきことであ ることはもちろんですが、アニメファン・ヤマトファンは、それ以上にこれを 恥としてもらいたい。
そのような短絡的な姿勢は、単に誤りであるのみならず、本当に批判すべ き真の問題点を覆い隠し、うやむやにしてしまう、という、より深刻な過ちを 孕んでいるのです。「アニメ」というジャンルが社会的評価をかちえるには、 長所・短所を事実に基づいて客観的に把握じ、優れた点・ 劣った点の両方を同じ重みで見据える、自己批判的態度が欠かせません。それ なくして、アニメに対して批判的な見解を持つ人々の視線の重みに、アニメは (そして「ヤマト」は)耐えることはできないでしょう。だから、「生き返り がどうこう」というような、低レベルの指摘に終始するのではなく、その背後 の本当の問題点を、自主的にえぐり出していかなくてはならないの です。
もちろん、非アニメファンからの視線には、公平な観点からのものだけで なく、悪意に満ちたものも多く含まれることでしょう。しかし、それをいいこ とにアニメファン・ヤマトファンがいつまでも稚拙な非難(せいぜい、「非難 ごっこ」のレベルとしか呼べません)から脱却しないとしたら、それはアニメ というものの社会的評価の上でマイナスにしか働かないのです(一般に、自分 たちを弁護しようとするのであれば、相手の過ちを口実に居直ることは許され ません。その背後には、過ちを犯していない無数の他者がいるのですから。自 己弁護の論は、相手がどう言おうと無関係に成立するよう構築しなければ、そ の意味を一切 失います)。
「ヤマト」という作品の価値を汚さないためにも、そして何よりアニメに 対する社会的偏見を拭い去る戦いで勝利をかちとるため、「ヤマトでは一度死 んだキャラが何度も生き返った」という、誤った安直な非難の声が消え去るこ とを、心から願ってやみません。
※注劇場版第1作(図の左上)では、スターシャは死亡している。よって、劇 場版第1作から「ヤマト2」へと辿った場合は、「新たなる旅立ち」へ続くこ とはできず、ここで打ち止めとなる。
すなわち、第1作・第2作の劇場版・テレビ版の組み合せを4通り全て考え てみると、
なお、「さらば宇宙戦艦ヤマト」と「新たなる旅立ち」の正式タイトルは、 それぞれ「さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち」と「宇宙戦艦ヤマト 新たな る旅立ち」である。上の図では長いので省略したタイトルを用いた。