> > しかしそうなると、大問題があります。浄土宗,浄土真宗の教義からすると、この世に「悪霊」なんてものが存在するはずがないのです。
> 阿弥陀如来の本願なんて、政治家の選挙公約みたいなモンでしょう。「全ての衆生が分け隔てなく救われるような仏国土を造ります」ということであって、阿弥陀さまもまだ実現に向かって鋭意努力中なのではないでしょうか。
ミもフタも無いなあ(苦笑)。それを言ったら世の宗教関係
者の文言は尽く「公約」になっちゃいますが……。
さて、問題となっている阿弥陀如来の本願は48の大願の内の
18番目、「10回念仏した者を極楽浄土に往生させる」です。つ
まり、この「念仏」というのを浄土宗系では非常に重視するの
ですね。従って弥陀の本願にすがらず、かと云って他の行き場
所(因みに仏教では極楽浄土以外に、他の仏が主催する浄土が
多数ありますし、前世の行いによっては他の六道[りくどう]
(天上、人間、修羅、畜生、餓鬼、地獄)に転生する事もあり
ます)すらも見失ってしまった霊魂が現世に留まり悪霊と化す、
と云った解釈は十分にあるでしょう(地縛霊はこの状態か?)。
それに、大昔から人間界以外の六道から餓鬼やらがちょくちょ
くやってきていたみたいですし、政変の多くには欲界の頂点に
君臨する第六天魔王やその子分の怨霊も出没していたみたいで
すから、案外その辺の世界の境界はユルいのでしょう。
ですから、阿弥陀如来の極楽浄土は恐らくあるでしょうし、
それが現状と矛盾するという事もそう非いでしょう。
> それに、美神のような優秀なゴーストスイーパーを多く養成し、迷っている悪霊を成仏(正確には、浄土宗では極楽往生と言います)させるというのは、本願実現のための阿弥陀さまの“政策”なのでは?
> ということは、妙神山の修行場は、実は阿弥陀さまが作ったのでは? 管理する小竜姫がよく「仏道」とか「仏罰」とか言いますが、ただ漠然とした仏教のことではなく、阿弥陀如来を指しているのでは?
これらは無いでしょう。
その理由は第一に、ひたすら弥陀の本願にすがる事が往生へ
の唯一の道なのであって、それ以外の善行を積む事は却って阿
弥陀への他力信仰を歪めてしまう危険すらあるからです。悪行
を奨励する教えと誤解されがちな「悪人正機説」の本質は、他
力本願以外の善行に纏わる偽善を指摘するもの。つまり世俗上
な善悪ではなく宗教上の善悪こそが極楽往生への基準になると
強調したのがこの「説」です。
従って「GSを養成し悪霊を「極楽」へ往かせる」のは全く
弥陀の本願から外れています。それに現実の浄土宗系教団でさ
えも、その信仰の特質故に発足以来なかなか教団化に到らなかっ
た歴史もありますので、「修行場を作る」のも違うように想い
ます。同様の理由で余所での「令子が阿弥陀の顕現である」と
いう説も支持できません。
(余談。忠夫とキヌは阿弥陀の脇侍の聖観音菩薩(か如意宝
珠を持つ如意輪菩薩、いずれも現世利益)と勢至菩薩(智
恵、菩提の心を起こさせる)の各々顕現とするのも面白い
けど……文珠からの連想だったら忠夫とキヌはそれぞれ文
殊菩薩(智恵)と普賢菩薩(行、女人往生、延命)、令子
は釈……と、どの道バチアタリなのでこの辺で(苦笑)。
やはり日蓮や空海あたりの高みにまで行かないとなあ。)
第二に、竜王は天竜八部衆の1つであり、阿弥陀如来の管轄
ではない事です。両者とも出身は同じくインドなのですが、小
竜姫の上司が斉天大聖(ハヌマーン)である事から、竜神族
(ナーガ)はヒンドゥー時代からの序列にそのまま従っている
模様です。よって阿弥陀如来とは少し遠いのですよね……。
> > まあそもそも、極楽浄土の存在を信じている人が、「現世利益第一優先!」でいいのか? という問題がありますけどね。
> なお、現世利益は、作品では「げんせりえき」とルビが振られていますが、仏教用語では「げんぜりやく」です。
先に述べたように現世利益は浄土宗の善悪に抵触しませんし、
阿弥陀の脇侍の観音は現世利益の菩薩です。よって上の懸念、
仮に令子が浄土宗であっても、実は全然問題にならないんです
よね(笑)。寧ろそれでも弥陀の本願にすがるのであれば、彼
女は立派な浄土信徒、とも謂えるのです(ただし、以上の議論
は浄土信仰の源初的な部分のみで論じているので、それが現在
の浄土宗系の教義に一致するものではありません。常識的には
一般市民として当然、世俗の善悪も重視するでしょうしね。そ
れを超越してしまうと……今だに世界各地で起こっている様々
な悲劇の発端の一つとなってしまうわけです)。
> 母親の美智恵の言葉によると、美神令子が死ぬと「輪廻転生」するそうです。美神も納得しています。ということは、極楽の存在を信じていない(または自分は極楽に行けないと思っている)ということになります。極楽浄土に行くことができれば、仏になりますからもう輪廻転生はしません。
少々補足おば。
仏教で謂う「転生」とは死後、六道の何れかの世界に再び生
まれかわる事で、それが延々と繰り返されるのが「輪廻」です。
そこでは四苦八苦の苦しみが半永久に続くのですが、そこを離
脱する唯一の方法が「悟り」を啓き仏[如来]になる事です。
しかし現世では悟りを得るのは難しく、開祖である釈尊です
ら出家の後の凄まじいまでの苦行を経なくてはなりませんでし
た。果たして在家の一般信徒がこの様な悟りを得る事ができる
というのでしょうか?
そこで仏が用意した、悟りへと至る中間的な段階が「浄土」
です。そこは現世よりもより確実に悟りを啓く事ができる場
所ですが、所謂天国のような場所ではありません。ですから、
浄土に往生した者はまだ仏ではない(如来の前段階が菩薩=悟
りを求める者)ものの、悟りを得る可能性は断然高くなります。
つまり悟りを得るまでは輪廻転生から逃れた=解脱したとは
謂えないので、少なくとも今の状態の令子が極楽に往生を遂げ
たとしても、またすぐに六道に帰ってきてしまう可能性の方が
高いでしょうね(苦笑)。何故なら悟りを得るには煩悩を捨て
去る事が必須条件なのですから。
ま、正直言いまして、大本の議論については、ぼくも米田さ
んの意見にほぼ賛成です。彼女の霊的特性「神魔混合」にして
も、作中で執り行った異境の儀式の数々にしても、彼女が特定
の宗教に拘っている根拠を何一つ見出せません。
キメ台詞にしてもアニメ版『GS美神』のそれを踏襲した物
であって、特に設定上の配慮は感じられませんね。それはまる
で最初期の和訳聖書にて「神」が「極楽」と翻訳された例の様
に、それだけ極楽という単語が概念も曖昧なまま、しかし広く
深く世に浸透している事の証なのかもしれません。