どうも、米田隆雄さん。
> 菅原道真が登場しているのですから、平安当初ではないでしょう。
> また、美神・メフィストが現代に一時的に戻った時、菅原道真(神)が登場し、美神達が平安時代で遭遇したのは、神となる時に捨てた自分の怨念であるというように表現しています。
> ということは、道真が死んだ903年以降であることは確実。
このあたりの議論は賛成です。しかし、
> 「神」の要件を満たすには905年の祠(大宰府天満宮の起源)を建てたあと、あるいは919年の大宰府天満宮造営以降のどちらかは必要になるでしょう。
> ということで、平安時代のアシュ戦は早くても905年以降の話だったと思われます。
うーむ、鋭い指摘ですね……果たしてどうでしょう?
ぼくは延喜4年(西暦904年)説を推しているので(理由は、
マンガの表記を素直に読んだ結果、です)、ここはご指摘の点
をもう少し考えてみます。
まず、史実や伝説を紐解いてみましょう。
米田さんのご指摘通り、延喜5年(905)に道真の大宰府左
遷に同行してその死後も世話を続けた門人・味酒[うまさけ]
安行が道真のお告げを聴いたのが、神としての道真の最初と見
るのが有力です(『天満宮安楽寺草創日記』)。
そして時の下る事190余年、『栄華物語』の作者とも謂われ
れいる学問肌の公卿・大江 匡房[まさふさ]が大宰権帥[ごんの
そち]として大宰府に赴任した承徳[じょうとく]2年から康和4
年の間(1098〜1102)にメモ(『江談抄[ごうだんしょう]』)
に記して以来、「延喜2年(902)に道真は大宰府南方の天拝
山(標高258m)に登って天に訴え、終に天満大自在天神の神
号を授かった」という説が庶民にも広く流布します。そして終
には文楽として延享3年(1746)に大坂にて初演されますが
(『菅原伝授手習鑑』)、こちらでは山に登った直後に霊魂と
なり、京に飛んでいきます。
つまり事実かどうかはともかく「死の前年に神になった」と
する説と「死後まもなく怨霊になった」とする説も存在します。
では、次は原作マンガを参考に考えましょう。
米田さんが議論の根拠とするのは、現代での神道真の科白、
「諸君に悪さをなした道真の怨霊は私の分身…/神になる際捨
てた恨みつらみの怨念なのです!」(22巻133頁)でしょう。
しかし……それから暫く後、令子が再生した鬼道真に「雷」の
文珠を食らわせると「神道真の波動で一時的に正気に戻った…
!?」となります。
この西郷の指摘は少なくとも2通りに解釈できるでしょう。
1つは「元々、神道真と合わせて1つの存在であった鬼道真
は、神の霊的波動を浴びる事で一時的に神道真と等質の精神と
なった」とするもの。これは「雷」の文珠が雷神である神道真
が自ら創り出した物である事が前提となります。
もう1つは「神道真の属性である『雷』により、彼の神とし
ての部分が目覚めたのであって、実はこの鬼道真は完全には2
つに分かれていない『霊道真』である」とするもの。こちらは
上の様な前提は必ずしも必要ありませんが、これでは現代での
神道真が意図的に嘘を吐いていた事になります。
(後者の嘘の理由について、完全な想像になりますが……エネ
ルギー結晶で強化されたメフィストに「真っ二つ」にされた傷
が原因で、「デッド・ゾーン!!」の後の霊道真は神と鬼に分化
していったか、徐々に陽気を養い神へと近付いていった。よっ
て平安では神道真は登場しないし、現代でも鬼道真は登場しな
い。いずれにせよメフィストが神道真に頼み事をしたのは「デッ
ド〜」を延喜4年とすると……延長2年(924)は道真のタタ
リの正に真っ只中となります(因みに道真が起草した位記をもっ
て「新皇」とすべく、八幡大菩薩の軍勢が平将門の元を訪れる
旨の神託があったのが天慶[てんぎょう]2年(939)、「デッ
ド〜」を915〜920年とするとメフィストの頼み事はほぼこの
時期に重なります。(『将門記』))。)
結論。判断材料がいま一つ少な過ぎます(笑)。
まあ、上述の議論が何かの参考になれば幸いです。
> また、文珠については、道真が使っているくらいですから、アシュタロスも当然知ってはいたでしょう。
このへんのぼくの見解は、ぼくの別の方への回答を参考に。
@参考文献
『太宰府天満宮の謎』(高野 澄[きよし]/祥伝社 黄金文庫)
ISBN4-396-31306-3
だいぶ援用しました。サイズ故、掘り下げの甘い部分もある
ものの、多角的に太宰府天満宮を扱っていて飽きない。
『妖怪と怨霊の日本史』(田中 聡/集英社新書)
ISBN4-08-720156-2
道真には1章を割いている。「日本妖怪巡礼団」の調査・案
内役ならではの広範な見識と分析が軽妙に語られる。