は〜い、位置を説明します〜。
> 『信長行状改方』の回では
> 信秀は清洲城に信長は那古野城にいる様子が描かれておりますが
> 二人は別々の城に住んでいたんでしょうか?
はい、信長が吉法師(幼名)の頃と言うか、生まれてすぐに
信秀は実は古渡城に移りました。那古野城はそのまま吉法師の居城になり
元服後、そのまま信長の居城になりました。
清洲城が信秀の居城だった事は無く、古渡城を居城に信秀は
居ました・・・がこれは、史実。
と言うか、信秀の尾張制圧作戦はまだ初期段階で
各地に諸豪族や、尾張守護の守護代家老である本家の清洲織田家
には、頭が上がらなかったと言うか、ちょっと立場が世間的には
弱かったのです。
信長の行状が悪いから信行を跡継ぎって話は
その清洲本家の陰謀だったりします。
信秀は、信行では本家に操られて
古渡織田が地方豪族で終わってしまうのを極度に警戒してました。
帰蝶姫(史実でも帰蝶といいます)の
政略結婚も実は、駿河今川氏に対抗すると言うより
尾張統一に美濃の道三の支援を仰いだと言う事があります。
> また、その二つの城は
> どれくらいの距離を置いて存在していたのでしょうか?
ええと、実際の現在の名古屋市の地図を開いてください。
清洲城は現在の清洲町のやや下の川の側のアタリになります。
それから那古野城はなんと、名古屋ドーム付近になります。
地図的には、熱田神宮から北北西に3キロ程度の距離になります。
で、古渡城は熱田神宮から北北西に約1キロ程度
実際には、信秀が信長を如何に認めていたか分かる配置になってます。
−−−−−−位置関係概略図−−−−−−
*清洲(織田信友)←敵対
*那古野(信長)
*古渡(信秀・尾張下四郡支配)
−*熱田神宮(現在の熱田神宮とほぼ同位)
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当時の海岸線−−−/ −−
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清洲城と那古野城の間は5キロ程度離れてます