メゾさん、ご返答どうもです。
> これはどうでしょうか? だって「キヌ」は彼女の本名ですよ? それに「お」がつくとそれだけで愛称ということになるのでしょうか?
それこそ時代劇を観ればよく出てくるでしょう。大概の
町人女性は二文字名に「お」を冠して呼ばれますが、あれ
は愛称とは呼べない物でしょうか。
> 昔、プロレスラーに「ミスターX」という人がいました。また新日本プロレスには「ミスター高橋」というレフェリーがいました。
> 彼はおそらく、テレビに出演して「今日は、ミスター高橋です」と言えるでしょう。またファンにサインを求められて「ミスター高橋」と書けるでしょう。 これは、「ミスター」が英語だからですよ。
> ところが、彼が「今日は、高橋さんです」と自己紹介するか。色紙に「高橋さん」と書けるか、ということなのですよ。
これは「ミスターX」にせよ「ミスター高橋」にせよ、
ロック・バンドの Mr. Big にしろ、それが彼ら固有の名
前である以上はこれの場合のミスターは「〜さん」の意味
で用いられている訳では非いからではないでしょうか(元
の意味として「〜さん」は保存されるでしょうが)。即ち
「ミスター」を含めて一つの名前ですので、そこだけをわ
ざわざ訳して自称する必要性は皆無なのです(例えば逆に
ミスター高橋氏が英語圏の国へ往ったとして、自らを「Mr.
Highbridge」などと名乗る機会は、タカハシの意味を尋
ねられたかちょっとした冗談でも非い限りはそうそう無い
でしょう。立場は逆として、それと同じ事)。
つまり、それは純粋に名前のお話であって、メゾさんが
仰るように「『ミスター』が英語だから」と云う理由なら
ば、なおさら自らを「〜さん」の意味で「ミスター〜」と
名乗るのは、英語として寧ろ不自然な表現となります。
> また、美神は大部分の人に「美神さん」と呼ばれています。(例外は、唐巣神父に「美神くん」,エミと美智恵に「令子!」,冥子と西条に「令子ちゃん」,けっこうあるな…) では、美神は自分のことを「美神さん」と自称するでしょうか。短冊に
> 世界中の富が 私のものになりますように 美神さん
> と書くでしょうか。
> 現代の僕たちは、おキヌが「おキヌ」と自称しても不自然を感じません。それは、「お××」が現代語ではないからです。
> しかし、美神が「美神さん」と自称することは大変に不自然に感じます。それは××さん、が現代語であり、現代でそのような用法はないからです。
> おキヌは元禄時代の江戸時代の娘ですから、自分で自分を「おキヌ」と呼ぶことは大変な不自然さを感じるはずです。
確かに「お〜」は本来は古語にあたりますが、現代語で
それが全く失われた訳ではありません。先に述べた用法の
他に、女房言葉で発達した指小的丁寧表現も現代語の中で
はいまだ健在です。
また(漢語に対する)和語の伝統として、2文字[音節]
よりも3文字の方が安定した音として耳に響き、また識別
性が増すと云う性質が有ります。よって「お」には「キヌ」
に一音添えて呼称としてより自然な「おキヌ」とする効能
が有るのです。
まあそもそも、今回のぼくの意見は「お〜」にに拘った
話では非いんです。
例えば彼女が「キヌっち」とか「キヌキヌ」とか「キヌ
ぴょん」とか「キヌ坊」とか「キヌ助」とか「キヌ三」と
か「キヌQ」とか……とにかく、どんな名前で呼ばれてい
ようと、それで短冊に記名する事を自分で納得していれば
それで可いんですよ。そうした意味で、愛称として長年定
着している「おキヌ」にはそれなりに妥当性が有ると謂い
たかった訳です(それが先に述べた「短冊に記す名前に対
する(キヌ自身の)意識の問題」です。また、タマモが普
段表記として滅多に現れない「玉藻」と書したのも、彼女
なりの自意識の表れと謂えるでしょう。何分に正式な文書
では非いのです)。
対して「美神さん」は辞書を参照する迄も無く愛称では
非い、敬称です。また、敬称には自他問わず茶化して言う
用法も有りますので、令子が自分の短冊に「美神さん」と
打つに当たっては何某かの意味がこめられている事が予想
されますが、まあ普通は用いないでしょうね。つまり「お
キヌ(ちゃん)」とは同列に比較するのが難しいのです。
> 彼女が自分の名前と全然違う名前、「シルクちゃん」とか「ミス・ジュディ」とかいう名前を名乗るなら、これはウェブで用いるハンドル名にもできれば、短冊に記す名前にもできるでしょう。
> しかし、本名の「キヌ」に不自然な「お」を付けるのは…これは、良く言えば言語感覚が現代人風になった、ということなのでしょうね。
> 江戸時代人の感覚ならば、とてもできないでしょう。美神が「私は美神さん」と自称するのと同じですから。
実際彼女が喋っている言語……に限らず、過去のオロチ
村(や平安時代)の面々が操っていた言葉は全て現代語な
のですが……(道士やヒャクメのひみつどうぐで霊的に翻
訳が為されている、などの解釈も可能でしょうけど)。個
個の人物の感性にしても余り時代的な部分には深入りせず、
表面的にさらった以外は現代のそれに多分に近い物である
と見受けられます。
要するに、言語(感覚)の新旧などの問題は『極楽大作
戦』に於いては不問とするのが、作品鑑賞の上での適切な
態度ではないでしょうか。例えば中世欧州の言語だって一
発ネタだけで済まされてしまった事情も有りますし(これ
もバロンの翻訳機能(が有るとして)やら、霊能力者同士
のテレパスィに依る意志疎通などの……以下略)。
つまりが、その辺りは『Mr.ジパング』と同じ目で観
たらどうか、と云う訳です。そうした部分での厳密さを敢
えて犠牲にする事で、例えば「リストラ」などの理解し易
い現代語を頻出させる事で、少年マンガとしての柔軟性と
娯楽性が大いに向上していたのは事実なのですから。
まあ何が理由であるにせよ、初対面の魔理への自己紹介
の挨拶の言葉が、「おキヌ」と云う呼称に対する彼女自身
の思い入れの程を物語っていると想うのですが……いかが
でしょうか。
「私、氷室…/おキヌっていいます。/今日、転校してきたんです。」
(『バッド・ガールズ!!(その1)』、コミックス24巻46頁6コマ目)
> なんでも、「ゲゲゲの鬼太郎」の水木しげる氏は、自分のことを「水木さん」と呼ぶとか。
以前TVで観た事があります。うむ、さすがは妖怪です。