道三と義龍は正徳寺での信長と道三との会見以降、道三が信長のことを誉める一方前にも増して義龍のことをバカにするようになり、お互いにますます仲が悪くなっていきます。そして1555年11月22日、義龍は病と称してにわかに寝込み、見舞いに来た弟の孫四郎と喜兵次を家臣の日根野備中守弘就に殺害させると道三に対して義絶を宣言、公然と反旗を翻します。
この時点では義龍も道三の命まで奪うつもりはなかった(武田信玄が信虎を駿河に追放したときのように国外に追放するか、形だけの義龍への家督継承、いわゆる「隠居政治」を止めさせて正式に自分に家督を継がせるかのどちらかを望んでいた)らしいのですが、道三が弟達の仇を討つといって兵を募ったため義龍もやむなく道三を討つ気になったといいます。が、既に美濃の国人衆の信頼を失っていた道三のもとに集まった兵はわずか二千七百、対する義龍のもとに集まった兵力は一万七千、勝負は戦う前から決まっていました。信長は舅の危機に対してみずから援軍を率いて出陣しましたが、道三の敗死をはばむ事は出来ず、1556年4月20日、稲葉山城の東、長良川河畔で義龍軍と激突した道三軍は奮戦したものの敗れ、道三は義龍の家臣、小牧源太に首を取られてしまいました。合戦の詳しい経過は「ザ、グレート展開予想ショー」の「マムシ、息子に腹を食い破らるる」をご覧ください。
なお、前半シリアス対しての後半ギャグは、別に「禁断の兄弟愛(笑)」をテーマにしたものではなく、単に話し全体の雰囲気をなごませるためのもので別に深い考えはありません。(笑)
まぁ、何故義龍とゆーマイナーな戦国武将を持ち出してきたのかといえば、
私はどちらかと言えばアンチ信長派に偏ってしまうんですよね。斎藤義龍や浅井長政に目がいってしまうのもそのせいでしょう。浅井長政は父の久政に逆らえず、朝倉側について信長に敵対したことでこれまたあまり評判のよくない人物です。しかし、私はそう単純には決めてかかれません。それはあくまで「結果」から見た歴史であって、もし自分が当時の長政や義龍と同じような立場にいて、否応ナシに決断を迫られるような場合があったときは彼らと同じように悩み、苦しんだことでしょう。
あと、信長を絶対正義、万能の戦国大名と見るのもどうかと思います。確かに信長は中世的な勢力をことごとく破壊し、近世への扉を開いた人物ではありますが、実は信長だって尾張 統一以前はかなり汚い謀略を重ねてきていますし、(例えば「ミスター・ジパング」でもやった叔父信光と共謀しての清洲城乗っ取り)信長に敵対した=悪的な見方もどうかと思いますので。信長も人なら敵対した人物も人。そんなに大きな違いはないと思うのですが。
とゆーのが主な理由です。