これは「歴史群像」に書かれていた話ですが、今川義元は過去に言われているような無能な武将ではなかったといいます。子の氏真がドッグ・レースや蹴鞠にうつつを抜かしている時に、「文武の道を怠り、そんなことばかりしていては今川は滅んでしまうぞ!」と注意したそうです。そして事実、氏真の代で今川家は武田信玄に攻められて滅ぶことになります。第一、今川義元が本当に無能な武将だったら武田信玄や北条氏康に頼られなかったはず。それどころか、とっくに滅ぼされてても不思議ではないはずですし。
桶狭間の戦いについても、従来のような奇襲説は今では影を潜め、新たに「信長は陽動作戦を繰り返して今川軍を混乱させ、最後は本隊に正面攻撃をしかけて勝った」という説が出てきています。まぁ、その話は後ほど。
次に、今川義元を討った後に立ちはだかった強敵、斎藤義龍、龍興親子について。肝心の義龍自身に関しては以前も書いたと思いますが彼は「名将言功録」によれば身長六尺五寸(約195m)の大男で、家臣や領民に対しては細心の気を配ったなかなかの名将だったそうです。道三は自分とは似ても似つかない容姿の義龍のことを愚鈍だとバカにしていたそうですが、長良川の戦いの時、義龍軍の陣構えを見た道三はその見事さに「さすが道三の息子」ともらしたそうです。まぁ、彼は惜しくも桶狭間の戦いのほぼ1年後に急死(死因は当時不治の病だったハンセン病ともいわれているが、詳しい事は不明)していますが、もし彼があと十年生きていたら信長の美濃攻略はかなり遅れたことでしょう。
その子、龍興については家臣の竹中半兵衛に居城の稲葉山城を乗っ取られる、側近の言うことにしか耳を貸さず家臣の諫言を聞き入れない等の悪名は数あれど、あの信長を敵に回して6年間もの間美濃を守りぬいたのですから、少なくとも軍事面に関しては凡将ではなかったと私は思います。この龍興は美濃を去った後越前朝倉家の客将となり、攻め込んできた信長とまたしても戦うことになり、1573年8月14日、越前刀禰坂で戦死しています。
なお、よく言われる義龍は道三の「義龍頼芸の隠し子説」は最近になって
江戸時代初期の創作であることが発覚しました。義龍はれっきとした道三の実子だったそうです。道三自身の履歴に関しても創作があり、司馬遼太郎さんの小説「国盗り物語り」で登場して有名になったこれまでの通説である「道三一代にして美濃を乗っ取る説」も実は創作であることがわかっています。それによると、京都妙覚寺の僧から還俗して油屋の養子に入りこみ、美濃にやってきた(ここまでのいきさつも実はかなり怪しいのですが)のは実は道三の父である長井新衛門尉であったそうです。そうなると道三は父の業績を受け継ぐ形で「国盗り」を断行したんでしょうね。