鷹狩や忍者などについてはくわしく説明しているのに、なぜかこれについては「守護代」が出てきただけで、これじゃあわけわかりません。
実は信長の家系は国主ではなかったそうです。力をつけだしたのは信長の父・信秀の代からだったそうです。だから、信長が統一するまで尾張がガタガタしていたそうです。
家康の家系も国主ではなかったそうです。力をつけだしたのは家康の祖父・清康の代からだったそうです。だから、清康は暗殺されてしまったそうです。まだ幼かった家康の父・広忠も危ないところで三河国内を逃げ回ったそうです。結局、今川義元の計らいで岡崎城に帰れたそうです。
信秀は1549年3月3日、広忠は1549年3月6日に病死したそうです。ある本には「家康と信長という二大英雄の父親がほぼ時期を同じくして亡くなっているのは因縁めいた感じがする」と書いてありました。確かにこの二人はおもしろいくらいリンクしています。同じ年に信長は尾張守、家康は三河守になったそうですし。
広忠は病死だそうです。実は広忠が暗殺されたと書いてある書物は一冊だけで、他の書物には病死と書いてあるそうです。暗殺したという家臣の名前も他の書物には出てこないそうです。それなのに、なぜか暗殺説が通説になっているそうです・・・。
家康は今川義元のところへ行って良かったそうです。あのまま三河にいた方が危なかったそうです。信長と同じ目にあっていたそうです。義元は家康のために館を建て、最高の教育をし、元服や結婚をさせたそうです。苦労したのは家臣たちの方だそうです。義元が三河の収穫をほとんどとってしまうことにより、主君のいない辛さを思い知らされたそうです。これにより、家康が三河に帰ったとき、徳川兵一人は織田兵三人にあたるといわれるほど、徳川兵は強兵になったそうです。