\(\DeclareMathOperator{\Gal}{Gal}
\newcommand{\field}[1]{\mathbb{#1}}
\newcommand{\Q}{\field{Q}}
\newcommand{\C}{\field{C}}
\newcommand{\rnsg}{\mathrel{\vartriangleright}}\)
「解の公式の有無」を考えるときに気をつけなければならないことの1つが「解がある(存在する)」と「解ける(解が表せる)」の違いだ。
代数学の基本定理により、「どんな方程式も、複素数の範囲内に必ず解を持つ」ことは保証されている。これと、「\(5\) 次方程式の解の公式がない」ということは一見すると矛盾しているように感じる人が多いだろう。
代数学の基本定理が言っているのは「\(5\) 次方程式だろうが \(100\) 次方程式だろうが、どんなに次数の高い方程式も、複素数 \(\C\) の中の『どこかには』必ず解がある」ということ(だけ)であって、「それは具体的にどこなのか」という値については何も教えてくれない。
「5次方程式には解の公式はない」というのは、「解自身は『どこかには』絶対あるのだけれど、それを四則演算及び \(\sqrt{~~}\), \(\sqrt[3]{~~}\) といったべき乗根による具体的な表式で表すことができるか、と言えばそれは別問題」という話である。易しい5次方程式の中にはそれが可能であるものもあるけれど、複雑になってくると最早不可能になる、というのが「5次方程式には解の公式はない」という話の意味するところだ。
まとめると、「複素数 \(\C\) の中に解はあるけど、それを具体的に表す式を作ることはできない」ということになる。
さて、ここからが本題。ガロア理論の中では、これと類似の違いに注意すべき場面なのに、多くの通俗本や web 上の記事ではそのことに無頓着なのではないか…?と私が感じている箇所がある。別にガロア理論に関する通俗本や web 記事を網羅的に調べたわけでは全然ないけれども、私の狭い範囲の経験の中では、今から述べることに注意を払った説明は見たことがない。
ガロア理論を紹介する際に、紹介者が挙げる功績としては、よく「方程式が代数的に解けるための『必要十分条件を』明らかにした」という話が出てくる。その必要十分条件とは「方程式のガロア群」と呼ばれる群が可解群になる、ということだが、「\(5\) 次方程式に解の公式がない」ということを示すことだけが目標なら、必要性だけ示せればよい。ガロア群が可解群にならない \(5\) 次方程式の実例を提示してやれば済む。そこで、「必要十分性」を重視して「単なる必要性だけではなく十分性まである」ことをアピールしたい紹介者は嬉しそうに十分性の説明を始めるのだ。
しかし、実の所、この手の話で「ガロア群が可解群であること」と同値とされているのは、「\(\Q\) にべき根の添加を繰り返すと、やがてすべての解を含む体に到達する」ということになっているのがお決まりの道だ。これだと、私が始めに触れたような「解がある」ことと「解ける」ことへのギャップが口を開けて待っているのではないか。
例を挙げて説明したいところだが、余り単純すぎる例だと、どんなギャップかピンと来ないかもしれない。例えば、\(x^{2}=8\) や \(x^{2}+2x-1=0\) といった方程式の場合、「解は \(\Q(\sqrt{2})\) の中にあることを証明した」と言っても、「方程式がべき根で解けた(解を具体的にべき根で表す式を与えた)」と言っても、これと言った違いがあるように感じられない、という方も多いだろう(むしろこの書き方だと、前者の方が詳しいことまで言っているように感じられるかもしれない)。では、\(x^{3}-3x+1=0\) という方程式に対し、誰かが解を具体的に示すことなしに「\(\omega = \dfrac{-1+\sqrt{-3}}{2}\) とおくと解は \(\Q(\omega, \sqrt[3]{\omega})\) の中に存在する」と証明したとしよう。あなたは、その「解は \(\Q(\omega, \sqrt[3]{\omega})\) の中のどこにあるのか」にまったく触れていない証明を読んで「この方程式はべき根で解けた」と感じるだろうか?
\(3\) 次方程式くらいだと、べき根による具体的な解法というのが知られているので、「どうあろうと、結局はべき根で表す式が出るんだから関係ないじゃない」と感じる方もいるかもしれない。では、\(x^{5}+x^{4}-4x^{3}-3x^{2}+3x+1=0\) という \(5\) 次方程式だったらどうだろう。この方程式の解は \(\Q(\sqrt{5}, \sqrt{10+2\sqrt{5}}i, \sqrt{10-2\sqrt{5}}i, \dots)\) といった感じで \(\Q\) にべき根を添加していった体の中にあるのだが、その解の値を具体的に与えずに「この体の中のどこかには解がある」と示した証明があったとして、あなたは果たして「これはべき根で解ける方程式だ」と納得できるだろうか?
あるいは逆に超シンプルな話に戻って、\(x^{5}-15x^{4}+85x^{3}-225x^{2}+274x-120=0\) という例を考えてみる。これは実は5つの解がすべて整数で、ガロア群は単位群 \(\{e\}\) なのだが、誰かが具体的な解を求めることなしに「ガロア群が単位群なので、すべての解は \(\Q\) の中にあります。よってこの方程式は解けました」と言ったら「ちょっと待って。まだ『解けて』はいないよね。解が \(\Q\) の中にあるとわかっただけで」と言いたくならないだろうか?
ここら辺まで来ると、始めに注意していた「存在する」と「解けた」の違いが再びクローズアップされてきたことを理解してもらえたのではないだろうか。つまり、「ガロア群が可解群である場合は、方程式の解が代数的な数の中の『どこかには』ある(=係数から四則演算とべき根を有限回使って作れる)」ということをいくら示しても、これだけでは「ガロア群が可解なら、方程式は代数的に解ける(解が『どこに』あるかを具体的に指し示すことができる)」という話にはなっていないのではないだろうか。今我々が身を置いている文脈では、元々「解がある(存在する)」と「解ける(解が求まる)」の2つは峻別していたはずだ。少なくとも、私はそこが当初非常に不満だった。(いや、こっちはいつ「解がある」という話を「解ける」という話につなげてもらえるのか、という期待に胸を膨らませて読み進めているのに、結局放ったらかしなんだもの…。そのギャップに関心があるからこそ、ガロア理論に興味を持ってるわけで、ある意味最も重要なポイントと言っていい)
方程式のガロア群 \(G=\Gal(L/K)\) が可解であるときに、実際にべき根で解をどうやって求めるか、について触れている例も少ないながらあるにはあったのだが、それも大体次のような話どまりになっていて、(私にとっては)不完全・不十分だった。
ここでは、表記は「数学ガール」ガロア理論編に即して述べる。また、\(G\) が解 \(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) に対する置換群としてはどんな群かはわかっているとしよう。\(G\) が有限可解群だから、組成列を取ると商群が素数位数の巡回群になっているようにできる。その最初の正規部分群を \(H\) として、対応する中間体を \(M\) とすると \(\Gal(M/K) \cong G/H\) が素数位数の巡回群だから、\(M/K\) が巡回拡大になっている。これらより
\[ G = H \cup \sigma H \cup \sigma^{2} H \cup \dots \cup \sigma^{p-1} H \]
(\(p\) は素数)とおけて、
\[ \Gal(M/K) = \langle \sigma\rvert_{M} \rangle = \{e, \sigma\rvert_{M},
{\sigma\rvert_{M}}^{2}, \dots, {\sigma\rvert_{M}}^{p-1}\} \]
となる。ここで \(\theta\) を「\(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) の組み合わせ(\(K\) 係数有理式)で、「\(H\) では不変だけれども \(G\) では不変ではない数」であるように取って、
\begin{equation}
\label{eq:16-1}
r = \theta + \zeta \sigma(\theta) + \zeta^{2} \sigma^{2}(\theta) +
\dots + \zeta^{p-1} \sigma^{p-1}(\theta)
\end{equation}
(\(\zeta\) は \(1\) の原始 \(p\) 乗根)とおく。すると \(\sigma(r)= \zeta^{-1}r\) により \(r^{p}\) は \(G\) で不変で、\(r^{p} \in K\)。よって \(r\) は \(K\) の数の \(p\) 乗根なので、\(K\) に \(r\) を添加する拡大は単純べき根拡大。(※ 議論としてはあともうちょっと確認すべきことはあるけど、大抵省略されて話はこの辺りで終わっている)
この話で困るのは、「で、実際に添加すべき数 \(r\) って具体的にはどんなべき根なの?
\[ r = \sqrt[p]{\text{ここの具体的な値は何?}} \]
という所がわからないと、元の方程式の具体的な解を求めたいとき行き詰まっちゃうじゃない」という点だ。\(r\) の素になる \(\theta\) は \(M\) から取ってくるわけだが、体 \(M\) は事前には具体的に知られていない(どんな数 \(r\) を添加するかが求まった後で初めて \(M=K(r)\) が具体的に求まる)ので、最初 \(\theta\) を選ぶときは「解 \(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) の組み合わせ(\(K\) 係数有理式)で、\(H\)(の置換群としての作用)では不変だが \(G\) では不変でない」ような表式を作って、それを \(\theta\) とおくことになる。当然、解はまだ未知なので、このようにおいた \(\theta\) の具体的な値は不明なままだ。よって\eqref{eq:16-1}のようにおいた \(r\) も、「未知数の有理式で表された形」に過ぎず具体的な値も不明。これでは、「理論上 \(r^{p} \in K\) となる」ことが示されただけでは、結局それが「\(K\) の中のどの値なの?」がわからないままで、役に立たないじゃない………というのが、この手の解説を読むときに以前私が不満に感じていたことだった。
【 追記 】元の方程式が整数係数だった場合には解決できた。置換群としての \(G\) を具体的に求める手段と共に、「\(K\) の中のどの値なの?」を求めることも可能であることがわかって、これを繰り返すことによって「解が求まる」所まで行くことができた。詳細は別記事にて。一方、方程式の係数体に何の制限もない場合は、ただ単に \(G\) が可解な置換群としてわかっているだけでは「\(K\) の中のどの値なの?」を知る手段は(私には)見つかっておらず、解が求まる所までは行っていない。
ついでに、「必要十分条件」に関わる話をもう1件。私が通俗本等で「ガロア群が可解であることが、代数的に解けるための必要十分条件」という話に接したときに期待したことは、「ということは、与えられた方程式が代数的に解けるかどうかが、判別式か何かのような式によって直接判定できるのか」ということだった。
………ところが。実際に詳しい内容を読み始めると、どうも雲行きが怪しい。そもそもガロア群というものが方程式の解を通じて定義されているため、ガロア群を定義に従って具体的に算出できるのは「すでに方程式の解がわかっている場合」に限られる。これでは「まだ解が求まっていない方程式が、果たして代数的に解けるのか?」を判定する役には立たない。そこで「読んでいくとそのうち、解を直接経由せずにガロア群を求める方法が出てくるのだろう」と漠然とした期待を持ちながら読み進めることになるのだが、結局最後までそんな話は出てこず、「で、結局『与えられた方程式が代数的に解けるかどうか』はどうすればわかるの?」ということはよくわからないままだった。
ちょうど今日、何人か詳しい人に尋ねる機会があって訊いてみたところ、やはり「具体的な方程式を与えられたとき、そのガロア群を具体的に求めるのは、(整数係数、などの条件をおいたとしても)一般にはかなり難しい」(おそらく、そのようなアルゴリズムは知られていない)ということだった。つまり、こういうことになる。
■ 方程式を1つ与えられたとき、そのガロア群が可解かどうかはその時点で定まっているから、「代数的に解けるかどうか」も始めから決まっている。
■ ただし、「それが『どちらに』決まっているのか」を人間が具体的に知るのは、大抵の場合はかなり困難。
【 2015, 12/1 追記 】必ずしもそうではないことがわかった。「整数係数の方程式」に限定すれば、そのガロア群を(根に対する置換群として)具体的に求められる手順というのはちゃんと存在する。詳細は別記事にて。ただ、それを前提にしても次段落の叫びはほぼそのまま残る。「ガロア群が可解」であることが「代数的に解ける」ことの必要十分条件だ、なんて話「だけ」では話としてまったく不十分であって、「具体的に与えられた方程式で、置換群としてのガロア群は具体的にはどうやって求めればいいのか」という手順をちゃんと説明して欲しい。「手順」そのものは結構テクニカルで、ガロア理論の話全体からすれば蛇足に近い枝葉の話なのは確かだから、そういう事情を説明した上で深入りはせずダイジェスト的な紹介で済ますことはあっていいと思うが、そういった話がまるまる全部欠けているのは「そりゃあないだろう」と言いたくなる話だ。
いや、それならそうとちゃんと始めから書いておいてよ!そのことを伏せたまんま、「ガロア理論によって方程式が代数的に解けるための必要十分条件がわかった」なんて話を得意気にされても、「通俗本等でそのような知識に接する読者」が普通に期待するような話にとっては実用性が乏しすぎて「必要十分」であることに余り意味がないんじゃ仕方ないじゃない!これもやはり通俗本等のガロア理論の解説に関して、私が大きく不満に感じることの1つである。
この記事を書くことで自ずと周辺事項を再度考察することになった結果、ちょっと理解が深まった。一口に「方程式のガロア群を求める(知る)」と言っても、その深さの度合いには色々な(意味のある)違いがあることがわかってきた。
与えられた方程式が代数的な解を持つかどうかを検討したいとしよう。このとき、もしガロア群 \(\Gal(L/K)\) が完全にわかっていれば話は簡単で、これは有限群なのだから可解群かどうかは原理的には有限の手続きで判定が可能である。しかし、普通は方程式を解く前に \(\Gal(L/K)\) が完全にわかっている、ということはないはずだ。もし \(\Gal(L/K)\) が完全にわかっているならばその1つ1つの元も完全にわかっていることになるが、その元というのは「\(L\) という体上の変換(同型写像)」だ。それが完全にわかっている、と言えるためには、\(L\) という定義域・終域がどんな集合かということも完全にわかっていなければならない。ところが \(L\) というのは与えられた方程式についての最小分解体で、係数体 \(K\) に解 \(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) をすべて添加したものだ。まだ方程式が解けていない段階で、そういう \(L\) がいきなりわかっている、なんてことはないはずだ。
では、与えられた方程式のガロア群の構造(特に、可解かどうか)を、解く前にあらかじめ知ることがまったく不可能なのかと言うと、そうとも限らない。2次、3次、4次の方程式の解法を、体にべき根を添加して1段階ずつ拡大していく過程を観察すると、「ガロア群の元」というものを「体の同型写像」として完全に解明しながら進んでいるわけではない。そうではなくて、途中ではまだ解 \(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) は未知の値としたまま、それらに対する置換が持つ性質にうまく着目することにより、議論を進めているのだ。そこでは、解 \(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) の個々の具体的な値は知らなくても問題は起きないような話になっている。
つまり、「体の同型写像のなす群」としてのガロア群を解明するのではなく、代わりに「それと同型になる置換群」を解明することで4次以下の方程式は解けるのである。「群の構造」について知りたいのなら、元々の具体的な群を完全に知る必要は必ずしもなく、それと同型な抽象群さえわかれば十分なわけだ。「方程式のガロア群を知る(求める)」という表現は、その意味で使われることもおそらく多いと思われるが、その場合は「体の同型写像の群としての \(\Gal(L/K)\)」そのものズバリを知る(求める)、ということとは区別して考えなければならない。
【 2016, 7/24 追記 】 \(4\) 次以下の方程式の解法について改めて考えてみた所、前段落の記述はやや認識が誤っていたことに気づいた。例えば \(3\) 次方程式の解法というのは \(S_{3} \rnsg A_{3} \rnsg \{e\}\) という組成列に沿っているわけだが、\(x^{3}-2x=0\) という方程式のガロア群は \(G = \{(1,2), e\}\) だから、上の系列の中には現れない(\((1,2)\) は奇置換だから、\(G \not\subset A_{3}\))。つまり、\(3\) 次方程式の解法というのは、この方程式のガロア群がどうなっているか、などということにはまったく注意を払わないまま進んでいくものなのだ。この辺り、多少の手直しでは正確でかつ全体の流れと整合する文章には修正できなかったので、このまま放置する。せめて、この追記が読者の参考となることがあれば幸い。
さらに言えば、「どの抽象群と同型か」ということすら解らなくても、「可解かどうか」ということだけなら何らかのショートカットでわかってしまう、ということも(一部の方程式に対してなら)あっておかしくない。例えばガロア群はその元を \(\alpha_{1}, \dots, \alpha_{n}\) の置換と見なすことにより \(S_{n}\) の部分群と同型であることがわかるから、 \(n \leqq 4\) の場合はそれ以上詳しい情報がなくても可解群であることがわかる(可解群の部分群は可解群で、\(n \leqq 4\) のとき \(S_{n}\) は可解群だから)。今挙げたのは一番極端な例だが、ここまで行かなくとも「可解かどうか」の情報「だけ」を上手く抽出できるような、ある一定の方程式の一群、というのは存在していたりするのではないだろうか。
まとめると、一口に「方程式のガロア群が可解とわかる」と言っても、そのレベルは以下のように色々ありえる、ということになる。
● 群が可解であることだけわかっていて、それ以上の構造が不明な場合
これは、「解はあるが、解くことはできない」場合に相当する。つまり、有理数(ないし、始めの係数体)にべき根を添加して有限回拡大した体の「どこかには」解がある、ということだけは言えるけど、それがどんな体なのか、その体の中のどこに解があるのか、ということはまったくわからない。(…と言うのはちょっと早計なのかな。上で挙げた \(4\) 次以下の方程式のことを考えると。まあ、ここは厳密さにはあまりこだわらない、ラフな表現で行くとしよう)
● 群の構造はわかっている(どんな可解抽象群と同型かは判明している)が、どんな体上の同型写像なのか、という所まではわからない
この場合は、うまく工夫することによって解をべき根で具体的に表す表式まで導くことができる。
【 追記 】上で追記した通り、この文を書いた当時の私の脳内での認識は不十分で、実際にはこれだけでは解を具体的に表す表式まで得るところまでは行かない。「置換群としてのガロア群で不変な形の、解の多項式の具体的な値を求める手段」まで持っていないと、解の値を具体的に表す表式を導くことはできなかった。
● 体の同型写像の群としての \(\Gal(L/K)\) が完全に解明できており、それが可解である
もちろん、解をべき根で表す式が作れる。が、もともとの「未知数があって、それを求めるために方程式を解きたい」というシチュエーションでは、解く前にそういう状況になることはない。(何か例外的な場合にはありうるのかもしれないけど、普通はそういうことは起きない)
コメントを残す