なぜそんなに西野に冷淡なのか

以前、なぜ私がそんなに西野に敵意を露わにするのか不可解だ、という話が 出てきたことがあります。連載終了10周年を機会に、「いったい、いかなる精神 的回路が背景にあれば、ここまで酷く西野に当たれるのだろう?」という疑問を 持った人に対して、「自分で分析してみるとこういう感じです」という回答を少 し書いてみようかと思います。

まず、私は別に西野のことが 「嫌い」とか「憎い」と思ってるわけじゃなくて、本来は「どうで もいい(関心がない、という意味で)」としか思ってないんです。本 来、西野なんかどうでもいい。西野なんか、ホンッとにどうでもいい です。東城以外のヒロインは全員どうで もいい(無関心)んですが、その中でも一番どうでもよくて、端本と並んで 最下位です。道端の石ころみたいなもんですね(何だってそ んなどうでもいいキャラにここまで煩わされなきゃならんのか…)。西野の「マ ンガのキャラとしての魅力・価値」って、最初の別れまではともかく、再登場後 は「顔の造作」以外に特になく、それだったら他のマンガやアニメなどに西野と 同程度以上の美少女などいくらでもいます。何らかの見るべき点や希少性といっ た価値は何も持っておらず、本当に一山いくらのどうでもいいキャラです。これ は別にあの終盤や結末だったからそう思うように「なった」のではなく、一貫し てずっとそうでしたね。

で、本来だったら西野はまったく眼中にないキャラのまま終わったはずなの ですが、あの理不尽きわまる終盤展開のおかげでそうではなくなりました。連載 終了時に猛烈に不愉快な思いが募ったのでいちから読み直した結果、 出るわ出るわ、次から次へと西野が責められるべき点が見つかって、それでこう いうコーナーを作るに至りました。で、トップページに書いた通 り、このコーナーは「腹いせ」でやってることなので(笑)、西野に対して (時として過剰に)厳しいことを遠慮なく書きまくっています。妬み僻み丸出し で(笑)。それは当然自覚しています。

コーナー開設後に内容をどんどん加筆修正していったのですが、途中から、 腹が立つから粗探ししたくなるのか、大っぴらに腹を立てたいからその口実のた めに粗を探すのか、解らなくなってきている感じはちょっとありますね(笑)。 その辺、「鶏が先か卵が先か」という感じの負のスパイラルが発生してるんだと 思います。西野に対する悪意に満ちた視点で書いてしまっているので、純粋な西 野ファンの方には申し訳ない。そこは承知の上で書いているので、文句のある方 はご遠慮なくどうぞ。そういった声は甘んじて受ける所存です。

とは言え、このコーナー内で書いてることは、理不尽なこじつけや、まして や根も葉もないようなデタラメは書いてないつもりです。あちこちで鼻持ちなら ない悪意がこもった表現を遠慮なく使っていることは否定するどころか積極的に 認めますが、一方捏造・歪曲の類はしていないはずです。怨みが盛大 にこもったオーバーな表現が贅肉として目につくようになっていますが、それら を取り去って骨子だけを残すと、西野に対する正当な非難、西野が甘ん じて受けなければならない非難になっていると自負しています。

一番強烈な例を挙げると、「再登場後の 西野を見ると思い出されるのが、こちらの「ユミコさん」ですね」という奴 でしょうか。これも、人格の伴わない出 来損ないの木偶人形と評している所は、みっともない当てこすり や嫌味満載の表現になっているのは間違いなくて申し訳ないとも思いますが、そ の一方再登場後の西野って結局このユミコさんとどっこいどっ こいのキャラですよの方は実際まさしくその通りで、西野はその ように言われても仕方のないキャラだと思って書いてます。後者の方は別 に「申し訳ない」とは感じない、客観的な評価という感覚ですね。

で、いくら客観的評価だと思っているにしろ何でそんなに冷酷なことを平気 で書けるのか、という話ですが…。ちょっとこのマンガのことは一旦脇に置いて、 私より遥かに読みの瞬発力があって核心に切り込む評価を迅速に下していける方々 が、 「漫研」で「DEATH NOTE」第2部の高田について評している部分を 引用します(元は web チャットのログで、雑多な話題が錯綜しているので、関 連する部分だけを抜き出してあります)。

展開のために必要な機能以外は持っていないポンコツアンドロイドというか…。

キャラクターが備わる以前というか、展開のために必要な機能しか与えていな い状態で舞台に上げてしまった感じがするんです。操り糸や、球体間接[ママ] が見えそうっていうか…。

極端に言っちゃうと、この高田さんは人間じゃないですねwゲームの中のキャ ラみたいな。

ラスト頬染めてるんですよね高田さん。先週もそうだったかな?『頬染めて欲 しい展開に頬染めさせてるだけ』です。高田さんの意思なんてないし見えない。

いや、だからライトがなんか艶っぽい事しゃべると、ボタン押したかのように 頬染めるって状態だから、キャラクターが備わる以前って言ってるの。

高田はけちょんけちょんにけなされていますが、しかしそうやってけなされ た高田が気の毒か、と言ったらそうではない。ここでの高田はまったく中身のな いチャチなキャラだということを看破されて、それをそのままズバリ書かれてい るだけだからです。高田ファンの人がこれを読んだら怒ったり、悲しんだりする でしょう。しかし、だからと言って「何もそこまで高田に手厳しく書く必要はな いだろう」なんていう話にはならない。チャチなキャラはチャチなのであっ て、そのチャチさを身も蓋もなく断罪するのは全然「残酷過ぎること」ではあり ません。それはそのキャラ自身がありのままに引き受けるしかないことで す。もし高田派の人がそれを不満とするなら、「いや、高田がチャチだなんてい う主張は誤りだ。これこれこういう事情・描写によって、高田にはちゃんとした 充実した内実がある」ということを自ら立証する義務があるのであって、「高田 はチャチである。なぜならこうこうこうだから」という主張をする人が、最初か らその主張を手控えるべきだ、なんて話は、どこをどうひっくり返してもこれっ ぽっちも出てきやしません。

また、ここでの評者が決して高田のことを憎んでいるわけでもないこともお わかりになるでしょう。そのキャラを憎んでいるかどうかとは無関係に、酷 薄極まりない評価は当たり前のようにポンと出てくるものであって、それは全然 特別な所のないごく普通のことなのです。

本題に戻りますが、私が西野に対していくらでも冷酷なことが平気で書けて しまうのもこれと同じです。再登場後の西野はチャチそのもののキャラであって、 チャチなものを正面からチャチと断ずるのに何の罪悪感も覚えません。それは 「過度な冷酷さ」などではなく、「チャチなキャラが、そのチャチさ故に背負わ なければならない十字架」なのです。始めに書いた通り元々私は西野に何の興味 もないわけですが、西野に一切の思い入れがないまま、作中に描かれていること をそのまま受け取ると、真中のことが「そん なにも」好きになる理由がまったくない上に「真中の方から告白してきたから付 き合ったのに、自分よりも好きな女がいる」なんていう失礼かつガックリな扱い を受けた結果、そのことに幻滅してもうこいつとはやって行けない、と自分から 見切りをつけた相手謎の偏執的執着を示す再登場後の西野は、キャ ラとして完全に破綻していて、単なる展開の奴隷、いやさがらん どうの操り人形でしかありません。そう、上の高田に対する評は、適当に固 有名詞を入れ替えればそのまま再登場後の西野に対する評としてもズバリ成立す るのです。

そういうわけなので、私が再登場後の西野を一片の好意もなくバッサリ斬り 捨てていることについては、西野が気の毒になったり、西野に対して良心が痛ん だりということはまったくありません。西野派の方には申し 訳ないですが。上で書いた通り、「それを必要以上にみっともない当てこすりや 嫌味満載の表現で書いている」ことは確かで、その部分については批判は甘んじ て受けますし、言い訳するつもりもないですが、そこで中味として言ってること は何ら後ろめたさを覚えません。

あ、だから、最初の別れのまでの西野 はそうでもないですね。最初の別れのまで の西野は、何の興味も沸かないことに変わりはありませんが、一応ま ともな感情の動きが感じられる1個の人格の持ち主ですので、そこまで酷いこと を書こうという気までは起こりません。私が一切の共感を覚えず最低限の「人間 扱い」の必要すら感じない相手は、あくまで再登場後の西野 限定です。

いや、もうほんとに再登場後の西野さんは私にとって認識の新たな地平 を拓いてくれた、ある意味「偉大な」とすら言っても過言ではないキャラ ですよ。まさか、たかがフィクションのいちキャラに、ここまで強烈に不愉快な 思いと、10年経っても変わらぬ鮮烈さで迸る熾烈な憤りを覚えることができよう とは。やはり、紛い物 のエセ恋愛感情しか備わっていない、ヒロインとしての最低限の 本分すら欠く、かつては立派だったかもしれなかったキャラのショボい残滓 が、行動だけは真中に迫り続けることをお目こぼしされ、あまつ さえ 本当にすべきことを何ひとつしないままお神輿にでも担がれたかのように最 も重要な果実だけは手元に転がり込ませてもらい、その一方で真に その結末を必要としていた者の深い深い切実な想いがそんなどうでも いいものためだけに蔑ろにされ踏みにじられていった、というひどい 話が何重にも渡って積み重ねられると、それらひとつひとつではここまでのこと にはならなかったはずのことでも、例を見ない憤激をもたらすということなので すね。自分で体験してよーくわかりました。こんなもの、理解に至りたくは なかったですが(笑)。

西野の責任か作者の責任か

私が西野に向けている様々な強い非難は、その一部については「それは『作 者の描き方が下手だった』部分のとばっちりであり、『作者が』悪いんであって 『西野が』悪いのではないのではないか」という疑問を受けたことがあります。 その疑問に対する理由をいくつか考えてみました。なおここでは、「元々」西野 個人こそが非難されるべき論点というのは当然除外されて、「西野個人というよ りは作者が責められるべきではないのか?」という論点だけが議論の対象となる ことにご注意ください。例えば、 「かわいそうさ比べ」の欺瞞の 節で論じているような点は「元々、西野『個人が』非難されるべき点」なので、 議論の対象とはなりません。

[2015, 8/10] 先日、3つの主な理由のうち2 つを以下の抹消線部のように書いたんですが、改めてじっくり考えてみるとやっぱり どうも違うような気がしてきました。現時点で、もう少し自分の感覚にしっくり 来る理由を改めて考え直してみたものを、抹消線部の後に書いてみます。

まず、普通だったら(他の作品だったら)、たいていは「『この部分だけ見 れば』そう責めたくなるかもしれないけど、『本当の姿は』そうでもないんだか ら割り引いて見てやんなよ」と言い訳が立つ描写が、他の箇所に十分あるもんだ と思います。しかしこのマンガの場合、再登場以降、特に 終盤の西野ってひ どい描写ばっかりで、しかもそういう面に関しては妙に一貫もしており、 「ホントにそんなキャラなんだな」と思うしかないようなキャラになっているん ですよね。だもんですから、西野「本人」に(「作者」に、ではなく)非難が向 かっていきがちになります。

あと、そういう描写になっていることが、もしも「作者も意図せずにそうなっ てしまったもので、『避ける努力はしたけど結果としてそうなってしまった』と か『連載時はそこまで注意が回り切らなかった・そこをフォローできるだけの能 力や余裕がなかった』」という類のことならまたちょっと違うのかもしれません が、どうもそういう感じはしないんですよね。西野を無理矢理最終ヒロインの座 に収めるために、「西野がそんなひどいキャラになってしまうことを特に気にし ないで描いた」という感じがします。かなり感覚的な話なので「根拠は?」と言 われると困りますが、うーん、今この場で思いつくのは「そういう西野をフォロー しようという意思が感じられる描写が(特に終盤には)全然思い当たらない」と いった点がひとつでしょうか。

もちろん、西野に対して非常に不愉快な思いを抱いていることから「なるべ く多くの材料を西野を非難することに使いたい」という意向がはたらいているこ とは間違いないのですが、それだけかというとやはりそうでもないですね。以下、 それ以外の理由について考察します。

まず1つ目は、「西野個人に対してはとばっちりだ」と一見思われることも、 詳しく見ていくと実はそうでもない、という話に落ち着くのではないかと思われ る部分です。例を2つほど挙げます。

  1. まず、私が 結局、この終盤では、特に学園祭後に顕著ですが、真中も西 野も「主人公の成長」という極めて重要な要素は全面的に東城にお膳立て してもらいながら、自分たちの幸せのために必要なものさえ手に入ればこっ ちのもの、とばかりに東城のことをまったく顧みず一方的に踏み台にし、 しかもそのことに罪悪感を感じている様子が乏しい、という 恩知らず極まりない極悪カップルにさせられてしまったわけで、これ をこの上なくやり切れない話と呼ばずして何と呼べばよ いのでしょうか。と書いた部分を考えてみます。この部分は、西 野「本人」はそういった裏事情を知らなかったので、西野「個人を」責め るべきではない、という話も一理あります。ただ、その「知らなかった」 というのは、元を辿れば 真中と西野 の関係がかなり貧困で、互いに踏み込もう、触れ合おうとする積極性がま るでなかったというお粗末さに起因する所が大なので、「西野個人」 も責任を免れるわけではないと思うんですよね(ここは「真中と2人での 共同責任」ということになるわけですけれども)。

  2. 一般的に言えば、作り話におけるキャラの「人間的な面の掘り下げ」と いうのはそのキャラの欠点や弱点の類を通じて行われるものです。 東城がまさしくその典型ですね。 では、西野の場合はどうでしょうか。西野はほとんど欠点のないパーフェ クト・ガールとして描かれた上に、 直接的内面描写が非常に乏しかった ために、人間的な面の掘り下げが極めてやりにくいキャラに なっています。西野が持っていた弱みと言えば、「東城に対する劣等 感」がほとんど唯一のものでした。再登場以降の西野は、 ほとんど理由のないままただひたすら真中一 筋で奉仕し続けて男性読者の願望に無限に都合よく無限に迎合し続ける だけの中味カラッポの超安直キャラとしてだけ しか描かれてなかった(≒河下先生の手抜き)ので、そこら辺がすっ かりお留守になっちゃってたんですよね。ところが終盤では、そんな西野 を急遽最終ヒロインに祭り上げることになったものですから、西 野というキャラの掘り下げはその「東城に対する劣等感」を以てする以外、 ほとんど手段がなかったのではないでしょうか(河下先生の腕前 だと、あの短期間でそれに代わってキャラの掘り下げを可能とするような 材料を西野に用意するような芸当は、残念ながら到底望むべくもありませ ん)。これが、 「西野が困難にぶつかると、西野自身は何もしないで他人任せにしている 間に、東城が行動を起こした結果ご都合主義的に西野の困難が解決されて 棚ボタ的に西野に有利な結果が転がり込む」という余りに 偏りすぎた話ばかりになったという所に表れているのでしょう。 事態の背景が西野の「東城に対する劣等感」に起因するものだったた めに、ドラマを動かそうとすると東城が「召喚」され「使役」されること で問題が解決される、という物語的機序がそこに横たわっている様子 が観察できますね。

    こうやって「ひたすら西野を甘やかすだけ」の展開が反復された構図が 見えてくると、一見「西野本人ではなく作者が悪い」ように見える事 象であっても、実際は「西野個人の資質」(キャラを掘り下げることが可 能な内面が極めて乏しかった)にこそその根本的な原因があったこと が浮かび上がってきて、結局は「西野本人の責が問われる」形に帰結しま す。

第2に、次項とかなり重なりますが、「実際に『描かれたもの』が、客観的 に見て目も当てられないくらい醜悪だった」ということはちゃんと書いておく必 要があります。例えば 文庫版のレビューで出てき た 特に物語が佳境を迎えたあとの、切ないまでの息苦しさ。登場人 部たちは皆一様に優しく、優しいが故にどこかで相手を傷つけるような選択をし なければならない。その選択のために、自分の心を傷つけながら夢を追い、愛を 追う。 / その描写が堪らなく息苦しいけれども、それは多分私たちの初恋に似 た息苦しさで、その息苦しさが、試験勉強をしながら好きな子を思う嬉しさや、 街角で偶然見かけたときの何とも云えない高揚感や気恥ずかしさに似て、私たち の心に心地よいさざ波をたててくれます。 / 河下先生の作品の根底にあるのは、 どちらかというと子供向けの分かりやすいコメディチックな部分ではなくて、美 麗な絵に象徴されるように文芸や音楽や美術の世界にも似た深い心理描写の中に あり、少年ジャンプで連載されていたこの作品は、確かにジャンプの年齢層には 難しい部分もあったと思いますけど、もっと評価されても良いのではないかと思 います。 / 00年代を代表するラブコメの一つであり、普通のリアルな高校生 の気持ちを描いた、語り継がれるべき作品です。といった評は、表面的 な美しさのみに惑わされてその背景の醜悪さが見事にスッポリと抜け落ちていま す。こういった評が横行するのを見るにつけ、「この作品の評としては、西野 (や西野と真中というカップル)が(結果的に、ではあるにしろ)いかに醜悪な 立場を与えられていたか」ということをストレートに強調しておく必要性は改め て感じます。そこをうかつに「作者が」悪い、という形でまとめてしまうと、 「この作品が」いかに酷いものだったか、という最も重要な点の焦点 がブレてしまう恐れがある。私としては、そこがストレートに伝わる表現を採り たいです。

※ 余談ですが、上記の評はその後彼女と の再会や印象深いエピソードでは夜がモチーフとして繰り返されという着眼 点は鋭くてよかったです。ここは「なるほど」と思わされました。確かにそうなっ てますね。河下先生もそこは意図的に同じモチーフを繰り返していたんだと思い ます。ここは純粋にマンガ描写的な評価として、西野が東城より優っていた 点だと思いました。東城の印象的なモチーフとして使われていたのは「屋 上の出会い」でしたが、これが何度も繰り返されていたことは「真中との絆を再 確認し、それがより深まっていくことの描写」としては効果的にはたらいていた 一方、「ワンパターンの一つ覚え」(笑)でもあったことは確かだったので、こ こは西野側に軍配を上げたいと思います。(余談終わり)

そして3つ目の理由を挙げると「西野派による終盤の不当な賞賛を否定する ため」というのもあります。

西野派の人はよくこの終盤の展開や西野というキャラに不当な栄誉を与え、 「だから西野が最終ヒロインになったことは当然だ」とか「だから東城が報われ なかったことには正当性がある」とか「真中と西野の関係は美しい」といった デマをでっち上げようとします( 例1例2)。それに対 する反論としては、「いや、この終盤は作者の描き方が下手で支離滅裂になって るんだから、まともに取るのは意味が薄いよ」という論法では効果が薄いんです ね。彼らが前提にしているのは、「このマンガは単なる パンツマンガじゃなくて、ちゃんと見るべき 点があり、自分はそういう点をきちんと拾い上げているから西野を、ひいてはこ のマンガを『正しく』評価できている」という想定なので。そういう見方に対し て、「作者の描き方が下手なので…」という類の指摘を行っても、彼らにしてみ ればその反論は「自分の読みに届いていないだけのただの負け惜しみ」にしかな らない。

なので私は最初から「相手の土俵に上がった上で、西野派の暴論を 否定するために」作者の描きを原則としてまともに取った上で批判を行うとどう なるか、ということを書いているわけです。「たとえそちらの主張通り、実際に 本編に描かれていることをまともに取ったとしても、西野に正当性などないし、 東城が一方的に貶められる謂れはないし、真中と西野の関係は貧困そのものだよ」 というふうに議論を組み立てて初めて、有効な反論として体を成す、ということ はおわかりでしょう。んで、そうやってこの作品が「マンガとして」やり損なっ てる点を詳細に暴いていくと、必然的に西野に関わる箇所がほとんどを占めます が、そこを「西野に対して何の遠慮もなく」書いていくと、結局「西野個人を」 (「作者を」ではなく)過激に非難しているのと同じ結果に収束していくわけで す。


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井汲 景太 <ikumikeita@jcom.home.ne.jp.NOSPAM.>(迷惑メールお断り)
最終更新日: 2016年1月24日