元ネタ大作戦!!第3ステージ 過去ログ

No. 106 織田信長こそ初めて天下を統一することを考えた人だった!

榎本広美 : 01/06/16(Sat) 22:40

「ミスタージパング」でかんたんに説明されてますが、詳しく説明したいと思います。以下「織田信長 常識のウソ」に書いてあることをそのまま書きます。
「小説やTVドラマの影響であろうか、戦国武将というほどの人間はたいてい天下を取ることを望んでいた、と一般に思われている。しかし史実を見れば、これはまったく誤解であることがわかる。
そもそも幕府を開いたとされる源頼朝でも、天皇中心の政権の一部を職掌しただけで、天下を治める政権を自分が持つなど夢想だにしなかったであろう。
室町幕府を開いたとされる足利尊氏も同様である。彼らは武士の棟梁として武士の上に君臨はしたが、天皇・公家・大寺社の力が強い日本という国のなかで持った権限は意外に小さく、後の徳川幕府のような政権とはまったく違っていたのである。(ちなみに、豊臣幕府はもろくて弱かったそうです)
ところが、戦国時代になるとやや様相は変わってくる。天皇や公家、大寺社の力の源泉であった荘園が在地の武士たちに押領され、在地の支配者は武士に替わったのである。そのなかで、先に見た今川義元のように、数カ国を一元支配するような戦国大名も生まれてきた。彼らは一国一郡のような限られた範囲ではあるが、その地域の人民を支配統治する全面的な権力を有していたと考えられる。したがって彼らのうちの誰かが版図を拡げて日本全体を領国化すれば、その人物まさしく天下を取ったといえるわけである。
しかしそのようなことを当時の武将が考えたか否かが問題である。たとえば義元は駿河・遠江二国を領する戦国大名の地位を継ぎ、一代かかってようやく三河一国を領国化したが、彼の死によって三河はたちまち今川の手を離れている。強大な戦国大名でも一郡を取るのに一代を要したり、一国を取るのに数代かかるのは当たり前だったのである。それでも領国を拡げられる大名は運に恵まれていたほうである。領国を維持するだけでも大変な努力と精力がいるのが、戦国時代だったのである。
当時の大名にとっては、生きるということは領国を維持拡大するということだった。したがって自分の領土を守り、他領を侵すという日常の課題と隔絶したようなこと、すなわち天下統治などということは現実的にはまったく考えなかっただろう。もし考えたとしても、それは意味のないことであった。なぜなら、いずれにしても版図を拡げるという課題の延長で、その営みに埋没することになるからである。
このように当時の大名は天下を望むべくもなかったし、史実からも天下を取る意思を明確に持った武将は一人を除いて存在しなかった。それが織田信長である。信長だけが若いときから天下平定を意図していたことが明確にわかるのである。
その一つの証拠は尾張時代に信長が文書にサインしたときの文字、いわゆる花押である。この花押に信長は「麟(きりん)」という一字を使っている。「麟」とは中国で想像された架空の獣で、聖人が天下を治めて天下が平和になったとき現れるとされているものである。
こう説明すればいうまでもないだろう。信長は自分を聖人に擬し、天下を平定するという意思を「麟」という文字に表わしたのである。
もっと有名な記録は、美濃の稲葉山城を落とした後の信長の行動である。信長は稲葉山の名称を岐阜と変えているが、これは中国の周の王が住んでいた岐山から取ったものである。それだけでなく信長は文書に押す印の文字を、有名な「天下布武」の四文字にした。
このように信長は武力による天下統一の意思を、非常に明確なかたちで天下に顕わした最初の武将といえるだろう。(ちなみに、治世を表現した旗印や印を使っていた戦国武将は徳川家康だけだそうです)」


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